2012年10月25日

Art Review by Iibosi「夏展2012」

代美術レヴューサイトのライター、Iibosiさんに
「女子美夏展2012」のレヴューをご寄稿いただきました。

 女子美術大学の学生の作品が定期的に展示される、ギャラリーonthewind。今回は「夏展」にお邪魔し、2人の学生の個性的な作品について聞かせてもらった。

 「言葉の力に興味がある」という大武。特に、何気なく発せられた言葉が予想外の大きな影響を与える可能性に興味を持ち、「蝶の羽ばたきのごとき小さい力が地球の裏側の天候に波紋を起こす」というバタフライ効果という理論に重ねて表現した。音とは空気中を移動する振動なので、言葉を蝶の羽ばたきとして表現していることには、不思議と不自然さを感じない。

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また黒々とした影のような色をしている理由は、軽々しく発せられた言葉でもどのような形でどのような場所に影響を与えるかはわからない、という、言葉の重さや潜在的な力を表現したからだという。
たしかにこの世には様々な立場や状況が存在するため、空気中に特定の言葉が放たれれば場所によって予想外の反応をもたらす可能性はある。例えば大戦中のドイツ国民を鼓舞するヒトラーの演説は、敵国に届けば逆に否定的な攻撃の意味となる。
また表面上と異なった隠された意図を持つ言葉は、表と裏のどちらの影響を受けるかによって、人に異なった結果を与える。例えば「高い立場にいる自分の権力を示そう」という思いが含まれていたとしたら、12億以上のカトリック教徒の頂点に立つローマ法王の全世界に向けられた「愛と平和」を説く演説も、人によっては独裁者の自己顕示欲を満たす演説に似たものに聞こえるだろう。
さらに「うらめしや。憶えていろ」等の怨念を含んだ言葉は、長期間残留するのではないだろうか。何であれ何らかの思考から発せられ、その言葉による影響の結果を期待する言葉は、黒々として長く羽ばたきつづけ、各地に様々な波紋を及ぼすといえよう。
反対に、無邪気な裏表のない気持ちから発せられた、ただ言いたい気分だから言っただけ的な子供の言葉などは、例え暴力的であったり大人びた内容のものであったとしても、その蝶は現れた途端シャボン玉のように空気中に消えるのではないだろうか。言葉とは“無”から発せられ、一瞬にして空気中の無の空間へと回帰させることが、最も神聖で本来の言葉の使い方であるのかもしれない。

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 一見すると可愛いメルヘンチックな絵、といった印象を憶える佐野の作品。しかし伝えたいことは「この世界は全てが一つにつながっている」という壮大なテーマなのだ。
作品「日常」は、日常的なものをを一つ一つつなげてゆくと、全体的に予期せぬ面白い形が出来上がる、ということを表現した作品だ。女の子と、彼女をとり囲む環境に存在する、はさみ、本、洋服...などがつながり合って、一つの形を作っている。なんだか組み立て前のつながった状態のプラモデルパーツにも見えてくる。プラモデルは、一つ一つのパーツがランナーでつながり組み立てられるのを待っている状態から、切り離し組み立てて一つのモデル・世界が出来上がる。しかしつながったままの状態で広がっていって作り上げられる世界も、完成されたひとつの“モデル”といえよう。
「人間や周りの物などは、それぞれが目に見えない調和的なオーラやエネルギーを発していて、それによってつながり広がってひとつの世界を作り上げている...」彼女はそんなすべてが一体となった理想世界を表現しているのではないだろうか。
もしかしたら我々は、かつて組み立て前のパーツのように平面的にお互いがつながっていた時があって、そこから切り離され一つ一つのモデルとして独立して生きる運命を与えられたのではないだろうか。我々がそのパーツでつながっていた頃のランナー的な感覚を思い出せば、かつての理想的世界を取り戻せるのかもしれない。
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また一般的に、立体的な3次元のほうが、平面的で単純な2次元より空間的に優位性があるように思われそうだが、上下がなく横につながってゆく2次元的状態のほうが平等で崇高なものだったのかもしれない。我々の世界は2次元から3次元へと進化したもの、との説がある。しかし我々はかつて理想的な2次元世界に住んでいて、それからプラモデルが組み立てられるように、退化した3次元的な存在になってしまったのかもしれない...。そんなファンタジーに浸らせてくれる作品であった。

安東寛

ラベル:review
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2012年06月25日

Art Review by Iibosi「春展」

現代美術レヴューサイトのライター、Iibosiさんに
「女子美春展2012」のレヴューをご寄稿いただきました。

 自分はライターという仕事をしつつ、趣味でイラストを描いていることもあり、人の作品を見ているとウンチクいいたくなってしまうのだ。地元横浜の伊勢佐木町のギャラリーonthewindでは、美大の名門・女子美術大学の学生の展覧会が定期的に行われ、刺激的な作品が見られるので、以前からお邪魔し作品のレビューなるものを書かせてもらってきた。今回は4月に開催された学生達によるグループ展「春展」で、5人の学生からそれぞれの作品について聞かせてもらったので、ここで紹介したい。
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 "暖かみのある絵"を描くことをテーマにしている、という高師は、今まで鳥やウサギなどフサフサした毛質感の表現を得意とする、フンワリ感漂う絵を描いてきた。しかし今回は実験的に新しいモチーフに挑戦、クラゲという動物を選んだ。宇宙空間をユラユラ漂っているかのような印象のクラゲ、それは爆発した星のようにも見え、普通の動物にはない存在感に興味をひかれた、という。確かにクラゲは、不確かな存在感を醸しだしているといえよう。哺乳類などのように地上で家族を形成したりして生きる動物より、半透明な姿で無重力に近い海の中を、浮遊するようにフワフワと漂う、明確な意思を感じられないクラゲ...。生物というより空に漂う雲のような自然現象や宇宙的現象にも似た存在感を感じる。今まで彼女は写実的な作品を描いてきたが、このクラゲへのモチーフの移行が、抽象絵画もしくは不条理なシュール系絵画という異なった分野に、ユラユラと彼女を誘っていきそうな気がする。今後の彼女の作風の変化に注目したい。



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 日ごろ色んな人を観察し、"人々の日々の生活とそれぞれの世界観"を描くことをテーマにしてきた、という石橋。今回は動物をモチーフとし、中でも野良ネコを選んだ。そしてその動物の世界観を、「自分以外は敵だと思い警戒して人々の視線をすり抜けて生きている」という形で表現した。それが画面中央から素早く飛び上がった瞬間を写し取ったかのような、独特のアングルの今回の作品を生んだ。
また黒ネコを描いているにもかかわらず、下半身は黄色・青色など淡い色が散らばり混ざり合っていて、本来の黒が顔、特に目の周辺に集まっている表現も独特だ。これは彼女は"警戒心の強い野良ネコ"の中心部は"鋭い視線を放つ目"と考えていて、その他の部分には様々な色を散りばめ、中心部の目に近づくにつれ基本色の黒が凝縮されてゆくことを表わしている。黒は様々な色を混ぜ合わせると生まれる色であることからこの表現を選んだ、という。
この様々な色を飲み込む黒ネコが、宇宙空間に存在しすべてのものを吸収するという、真っ黒な渦巻き・ブラックホールを想起させた。それはこの黒ネコが中心に立つことを避けてグルグルと周りを回っているうちに、ブラックホール的な渦巻きを作り出すのではないか?といった想像をさせたからかもしれない。地球の片隅の暗闇で、人目を忍んで潜み影のような存在感で息づく黒ネコ。その小さなブラックホールは、人知れず人間の世界を侵食していっているのかもしれない



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 広島県に生まれ、原爆反対の平和教育を受けてきた被爆三世(被爆者の孫)の上田は、今回の震災による原発事故には特別なショックを受けた。被災地の「放射能で汚染されたガレキの山と化した地」は、今まで聞かされてきた「原爆投下後の故郷・広島」の姿と重なったからだ。その激しい思いに突き動かされ、震災をテーマにした作品作りを決心し、去年の夏には、1作目「現在地球に接近している小天体から地球をまもる計画」というタイトルの、「ガレキだらけの変わり果てた故郷の地でのた打ち回るように絶望に打ちひしがれる被災地の人々の姿」をリアルな描写で描いていた。そして今回の2作目はその続きの意味を持たせたもので、「震災の絶望を体験し行き着いた現在の被災者の心理」の表現を試みた、という。彼女は、今被災者たちは"究極の心理状態にある"と考えている。中央で"現実を受け入れられず殻に閉じこもるようにうずくまる"のは被災者の姿。その周りに、"馬""羊""ライオン"の動物を擬人化した形で、"嘆き""祈り""怒りからの発狂"という3種類の究極の感情に取り囲まれ、身動きが取れなくなっている様子を表現した。また古典的な宗教画における「黄金背景のテンペラ画」のように、背景に金箔を使用している。古典的な宗教画では"神の世界の崇高さ"を表現するために使用しているが、この作品では「被災者の真実の感情を見通す神の目」ということを表している。
我々の目には、テレビなどで見る被災者の様子は、「意外と穏やかで笑顔がうかがえるほどに落ち着いている」ように見えるかもしれない。しかし神の目という鏡に映すと、「嘆くか祈ることくらいしかできない状況で、しまいには怒り狂いたくなる」といった、むき出しの真実の感情が写っているのかもしれない。落ち着いた人間的な仮面をかぶっていても、本能むき出しの動物レベルにまで堕ちた被災者の感情を神は見通している、ということを表現しているのではないだろうか。もしかすると神は、人間世界に平和な状態が長く続くと、その落ち着いて上品に振る舞っていられる状態や科学文明により理論的に固まった状態の上に、自然災害などの災難を降りかけそれらをかき乱そうとしているのかもしれない。そして人間を感情レベルで動物・自然レベルに引き戻し、人=動物=自然、それを通じて神とも一つにつながるということを気づかせようとしているのかもしれない。このことを自覚させようとして起こした神の業が、先の大震災なのであろうか...。この作品からそんな想像をかきたてられた。これら3つの動物的感情エネルギーを昇華させることにより、我々は神へと近づくことができるのかもしれない。



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 そうまは今回の展示ギャラリーが、童謡「赤い靴」の舞台・横浜とのことで、この地にちなみ、赤い靴の少女をモチーフに作品を描いた。この有名な童謡の裏話では、「外国に渡る前に国内で死んだ」など、不幸な事実が語られている。そこで彼女は、連れられた異国の地に順応し、成長して凛として立つ12歳に成長した少女のイメージを描いた。しかし"後ろ姿"にしているのが独特だ。それは、正面=未来に向かって立っているイメージだからだ、という。
確かに絵の正面とはどちらだ、といわれると、鑑賞者側と考えるのが普通だが、「真正面を向いて立つ人物像」という観点からだと、"前を向いて一列に並んだ際の自分の直前の人"のように、鑑賞者に背中を向けている方が、正面を向いている感覚を覚える。しかし肝心な、"少女の前向きな表情"が見えないため、「この少女は本当は泣いているのでは?」などと、鑑賞者にとって不安を覚えさせる可能性がある。鑑賞者のイメージ力に働きかける作品といえるだろう。「父親は背中で語る」などといわれるように、後姿から発せられている雰囲気を読み取らせ、そのことでさらなるイメージを生ます効果なのかもしれない。「演劇等で舞台上の役者が観客に背中を向けて演技している状況」にも近いといえよう。役者としては表情を見せられないために、"背中で語る"的な高度な演技力を必要とされるだろう。しかも絵画の場合は声も動きもないので、この後姿しかも頭部のみだけで、"凛として立つ少女"を描くことが効果的だとそうまは感じたのだろう。
また鑑賞者側を向いた作品、だと、キャッチボール的な相対する世界になるが、この作品の状況だと、"キャンバスの中に広がる向こう側の世界"を想像させ、逆3D的な鑑賞者を絵の中に引きこむ効果もあるように感じる。キャンパス内に鑑賞者を引きこみ、シンプルな描写で鑑賞者のイメージ力を刺激させる、不思議な魅力を持った作品である。



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 清水は、見える、見えない、という"両極"を2枚組で描いた。まずは目を大きく見開いたネズミの絵。続く2枚目は、そのネズミの背後まで引いて見たもの。すると背後には猫がいる...が、目もヒゲもない。彼女によると「獲物として狙われて見られているはずのネズミの方は目が見えているが、見えてなくてはならない狩人的立場のネコは、目もなくセンサーの役目のヒゲもなくネズミの存在を気づく術のない状態にある。そのためネズミは油断する状態になっている」ということを表現しているのだ、という。なぜ目がないのか、などの理由はわからずナンセンスではあるが、不条理な状況が明快に描かれていて、不思議な現実感を持った作品だ。この作品から、もしかするとこの2枚目をさらに引いて見ると猫の背後に、猫を狙うはずの"見えない犬"がいて、さらに引くと犬を狙うはずの"見えない鷹"がいて、さらに鷹を狙うはずの"見えないクマ"がいて...、と続いていきそうな想像をさせた。
弱肉強食の世界では、強い方に"気づけない"というハンデを与えると、バランスが取れ、まるでシーソーが水平に保たれているようになり、緊張感と動きのない状態になる。知らぬが仏ではないが、気づけなければ平穏で何も起こらず、全てが止まる、そんな動物的・本能的な活動が止まった瞬間を描いた作品といえよう。獲物であることを知覚し、捕えようと行動を起こし、...動物的・本能的な行動が繰り返されて、自然界は営まれてゆく。もし視覚、触覚等で判断せず、「心の目で知覚する」ことができれば、"獲るものと獲られるもの"としてではなく、それを超越した"同じ生命体である"という感覚に達するかもしれない。このネコはそんな動物的な感覚を超越できる精神状態の一歩前にいるのかもしれない。そう考えると、ヒゲを落とし目を失くしたまん丸顔のネコが、剃髪して目を閉じた、悟りの一歩手前の修行僧の姿にも見えてきた。

今回の展覧会では上田のような震災をテーマにした作品が興味深かった。震災という人智を超えた出来事が、どのような影響をアーティストの感性に与え、どう表現するのかはとても気になる。人災でないことから、戦争をテーマにしたものより、内容が精神世界的、神的な領域に近いものになってゆく可能性があり、興味深い。また表現法も既存のものを超えた手法になってゆくのではないだろうか。また表現者にも自身の精神性の高さ・純粋さ要求されてゆくのかもしれない。震災という出来事は我々の心を傷つけたが、その傷口を入り口として、我々を精神性の高い領域へと導いたといえよう。そんな精神性を獲得したアーティストのこれからの活躍は注目に値するだろう。



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 追記: 横浜市の市花である薔薇をテーマに、onthewindで毎年5月に開催されている、「薔薇展」から一つ作品を紹介したい。今年は8人の作家がそれぞれ個性的な薔薇を表現していたが、下河の作品「his-story」が独特で面白かった。彼女は一般的な開花した薔薇の姿ではなく、薔薇の種を描いた。しかし形はヒマワリの種なのだ。その理由は昔彼女の体験したトラウマが影響している。小学生の時の観察日記の際、ヒマワリの種を何気なく育てたところ、自分の背丈をゆうゆうと超える信じられない大きさに成長し恐怖を覚えた記憶からだ。植物の小さな種を見る限りでは成長後の姿が想像できない、彼女はそんな植物の強力な生命力に脅威を覚えたのだ。作品では、シルクスクリーン等の手法を用いて、殻の表面から植物の潜在的パワーにじみ出ているかのような表現が効果的になされている。彼女は開花した花より種の方から、本質的な生命力を感じ取ったのだ。植物の持つ未知のパワーを表現した作品といえよう。


posted by on the wind at 02:46| Comment(0) | Review | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする